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滝田洋二郎『おくりびと』。この映画の"石文"から読み取れるもうひとつのメッセージは、「生き物は生き物食って生きている」。

最近まとめていくつか映画をみた中で面白かったのが、『おくりびと』。

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「生きること、死んでいくこと」がじわっとくる映画だった。

ひょんなことから納棺師という仕事に就くことになった小林大悟(本木雅弘)が、最初は戸惑いながらも、徐々に成長していく姿を描いた、素朴で胸に沁みる感動的な内容。おもわず、ほろり。


ところで、この映画は、納棺師の所作や流れる音楽も手伝ってか、

  • 気品
  • 美しさ

というものを観ていて感じる。日本人の感性で感じ取る世界観みたいなもの、といえばいいだろうか。

そこは、もちろん、いい。が、そういった感動的なところや、これぞ日本映画!なところについての感想は、様々な方が素晴らしいコメントを残しているのでそちらにゆずりたい。

それとは別に、個人的にいいなと思ったのは、もう少し、土着的というか、原始的な部分について。意外にこの個人的にいいと思っている箇所についてのコメントがなかったので、ちょこっとメモ。多少突っ込んだことを書くので、ご注意を。


タコのシーン

映画の最初あたり、どうも気になってしようがなかった場面がある。

※ ※ ※

小林大悟の妻・美香(広末涼子)がある日の夕方、自宅に帰ってきたとき、偶然会ったご近所さんから「タコ」を頂いてきた。ところが、いざ料理をはじめようとしたとき、そのタコが「生きていた」ことに驚く。

"生きたまま"のタコを料理することもできず、どうしようか考えたすえ、二人はそのタコを家の近くの川まで持っていき、そこへ流して返してやった。

※ ※ ※

この「タコのシーン」、冒頭からの流れから、何故か、妙に浮いてみえていて、「なんでこのシーンがあるんだろう?」と思いながらみていた。

もしかすると何でもないシーンだったかもしれないが、

  • 小林大悟の食卓シーン
  • 小林大悟とNKエージェント社長の食卓シーン
  • NKエージョエントの社員みんなでの食卓シーン

の3つの場面を通してみると、なるほどなと思うところがあった。


3つの食卓シーンから見えてくる「食うとは、生きるとは?」

  • 納棺師となって初仕事を終えた大悟は、遺体を棺に納めるという仕事がどういうものなのかを目の当たりにし、呆然となった。その仕事で目にした光景が頭から離れず、その日の夕食、食卓に並べられたチキンをみた瞬間、吐き気を催してしまう。これが最初の「小林大悟の食卓シーン」。

  • 月日は少し流れ、徐々に仕事にも慣れ、いつしかその仕事に誇りさえ感じられるようになってきた大悟だったが、同郷の友人のこの仕事に対する偏見、そして妻からも「汚らわしい」と言われてしまう。そういった諸々の事があって、この仕事を続けるべきか迷いはじめる。心の中ではこの仕事をしたいと感じているが、妻やこれから生まれてくる自分の子の将来のことを考えるとそうも言っていられない。考えたすえ、辞意を伝えに社長(山崎努) のもとへ。このあと、「小林大悟とNKエージェント社長の食卓シーン」になる。そのときの社長のセリフがいい:「これだってご遺体だよ」「生き物は生き物食って生きている」。

  • 社長との対話を通し、何かを悟った大悟は、淡々と仕事を続けることを選ぶ。月日は流れ、いつの間にか雪の降る季節。気がつけば、納棺師の仕事を終えたあとでも、フライド・チキンをうまいと感じながら食べられるようになっていた。これが「NKエージョエントの社員みんなでの食卓シーン」。

この3つの食卓のシーンと、冒頭の「タコのシーン」をつなげると、なんとなく、何か伝えたいメッセージがここにあるかもなぁと感じた。

生き物は生き物食って生きている

その感じは、うまく言えないが、例えば、

  • 「食卓に並べられた魚は食べられる」けど「生きている魚をみて、それをさばいて食べようとは思えない」

  • 「丸焼きの豚」は食欲なくすが、美しい皿に盛られた「ポークソテー」をフォークとナイフで一口サイズにしてなら食べられる

みたいなところへの「それはちょっと違うんじゃないの?」というメッセージかなと。

もう少し言えば、「食事」と「納棺」をクロスさせてみるといい、というか。

NKエージェントに、訳ありでその仕事に就いている女性が登場する。その彼女が、大悟に仕事の内容を説明するところで、「納棺ってね、昔は、親族とか家族とかがやってたの」みたいなことを言っていた。

そのことと、「鳥の丸焼きは出来ないし食べられないけど、その肉をパンで挿んでテリヤキ・チキンバーガーとしてなら食べられる」は、なんだか、つながっているように思える。

亡くなった方は、その方が自分の身内であっても、土へ返すときは、自分の手を汚さずに納棺師や葬儀屋さんにお願いし、鶏を食べたいときは、きれいに調理されたチキンだけを食べる。

何も、フライドチキンを食べるのが良くないと言っているわけではない。ただ、なんていうか、食卓に並べられた「フライド・ニワトリのご遺体」を食すことが進歩的だと捉え、たこ焼きなら食べるけど、生きているタコはかわいそうだから海へ返してあげようというのは、なんだかどこかおかしくないかい?という、そういうメッセージとしても読み取れるかもと思った。

文化的な振る舞いとか、気品とか、優雅さというものは、出来るだけ自分では目にしたくないモノ・コトを目にしなくてもすむような社会のインフラが整って始めて感じたりできるようになるものだと以前から考えていたところがあるので、もしかすると、ちょっと偏った深読みだけなのかもしれない。

けれど、今感じている生活の快適さや心地よさというものは、多くの「フタをされた臭いもの」に触れずにいられるから感じられる、というところをなんとなく捉えるのも大事かな、と。

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